【阪急電鉄創設者】小林一三の名言

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
そうしたら、誰も君も下足番にしておかぬ」

発言者:小林一三

小林一三さんってどんな人?

山梨県の商家に生まれた小林一三は、幼くして母を亡くし叔父夫婦に育てられました。明治21(1888)年に上京し慶應義塾大学を卒業後、三井銀行に入行しました。エリートコースを歩んでいった小林一三だったが、34歳のときにかつての上司、岩下清周(北浜銀行の創立者)から、「大阪で証券会社を設立するつもりだが、支店長にならないか」という誘いを受ける。金融業のノウハウを学んでいた小林一三は、株式取引に大きな可能性があるのを見抜き、その誘いに乗って銀行を退社しました。

ところが、その年、明治40年、日本を襲った日露戦争後の大恐慌によって証券会社設立の話が流れ、小林一三は大阪で露頭に迷うはめになります。気の毒に思った知人が、小林一三に阪鶴鉄道の監査役の仕事を紹介しますが、実は阪鶴鉄道は大きな問題を抱えていました。

当時、阪鶴鉄道は新たな鉄道路線を開通しようとして「箕面有馬電気軌道株式会社」という新会社を設立しようとしていたが、こちらも大恐慌のあおりで、公開した株式の引き受け手がない状態。ちまたには「開通前に新会社は倒産」といううさわまで流れ、周辺の土地の値段も大暴落していた。エリート銀行マンだった小林一三にとっては、まさに「下足番を命じられた」気分です。

しかし、小林一三はそれを拒まなかった。それどころか同社の専務になり、全てのリスクを背負った飢えで金策に駆けずり回ります。そして、かつての上司である岩下清周を説得して株式を引き受けてもらい、新規路線の開通を果たしました。

箕面有馬電気軌道は大正7年 1918年に阪神急行電鉄と改称。小林一三は昭和2年 1927年に社長へ就任しました。

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