「誰もやったことのない仕事にこそやりがいがある。
発言者:御木本幸吉
世界の何人も成功しなかったような仕事を成し遂げるのが、
日本の新事業家の栄えある使命じゃあるまいか」
御木本幸吉さんってどんな人?
三重県の「阿波幸」といううどん屋を営む家に生まれたのが御木本幸吉です。父は、粉挽き臼を改良して三重県から賞金を受け取ったほど機械いじりが好きな人で、御木本幸吉もその血を受け継いでいました。
幼い頃から士族への家へ通って熱心に勉強した御木本幸吉は、14歳の頃、すでに行商で金を稼ぐようになっていました。
機械いじりだけではなく、商才にも長けていたらしく、鳥羽港を訪れたイギリスの軍艦にも商品を納入していました。
明治11年 1878年に20歳で家督を相続した御木本幸吉は、鳥羽周辺で採れる真珠などの海産物が高値で売れることを知り、家業をうどん屋から海産物商へ変更しました。ちゃくちゃくと力をつけた御木本幸吉は20代にして志摩国海産物改良組合長、三重県商法会議員などを歴任する地元も名士となっていました。
鳥羽の海産物で最も高く売れるのは真珠でした。しかし、そのために乱獲が進み、真珠を生み出すアコヤ貝は絶滅の危機にひんしていました。事態を重く受け止めた御木本幸吉は大日本水産会の柳楢悦、東京帝国大学の箕作佳吉、岸上謙吉らを訪ねて、真珠の養殖が可能かどうかを聞いて回りました。彼らの答えは「可能」でしたが、それには「理論的に」という他但し書きがあり、かなり困難なことが予想されました。
明治23年に全くの手探り状態で開始した真珠の養殖実験は、3年目に半円形の真珠の付着という形で実を結びました。のちに御木本幸吉は明治29年に真珠養殖に関する特許を取得、やがて「真珠王」と呼ばれるようになりました。
御木本幸吉は真珠王と呼ばれる分岐点は、研究者から聞いた「理論的に」の言葉で、そこで諦めていたら、御木本幸吉は地方の名士で終わっていました。
ですが、御木本幸吉は冒頭の言葉どおり、その困難に真正面から立ち向かい、歴史に名を残しました。