井植歳男の名言
「与えらた仕事を命じたままトレースするのではなく、
井植歳男
自身の持つ知識・能力・技術・アイデアを
プラスし、自分の足跡を残せ」
日本の家電業界にとって、井植歳男の名前は忘れられないものです。
彼は、兵庫県で廻船業を営む井植清太郎の長男として生まれました。
13歳の時に父の井植清太郎が急死、井植歳男は跡を継ぐと主張しましたが、「子供が上の学校への進学を望めば、田や畑を売って行かせるように」という遺言が会ったため、母は猛反対。
結局、井植歳男は吾を通しておじの船で見習い船員を始めました。
ところが、大阪湾で東京倉庫の大爆発に遭遇、命からが実家に舞い戻ってきました。
そんなとき、姉が嫁いでいた松下幸之助から、独立してソケットを作ることになったので、手伝ってほしいという誘いがあり、大阪に出てきました。
当初は材料運びなどの下働きでしたが、大正9年 1920年に東京駐在員に任命されると、単身東京へ向かいました。
そして、関東大震災という大事件に揉まれながらも必死に市場拡大に務め、昭和10年 1935年に松下電器産業(現在のパナソニック)が設立されると、専務に就任しました。
やがて、大東亜戦争後に松下幸之助から離れ、昭和22年 1947年に三洋電機製作所を設立して、社長に就任。
独立する際に、松下幸之助から自転車用発電ランプの製造権を譲られ、当初はそれが三洋電機の主力商品でした。
しかし、井植歳男は名言どおり、譲られた物をそのまま製造・販売するということはせずに、改良に改良を重ねて、会社設立からわずか2年後には国内シェアトップになりました。
その後も、当時の「三種の神器」と言われた洗濯機に着目。低価格の洗濯機を発売するなど、他のメーカーとは一味違う製品の製造を心がけました。