本日の名言
いったい進歩というのは何であろうか。
発展というのは何であろうか。
失われるものがすべて無用であり、
時代おくれのものであったのだろうか。
発言者:宮本常一(民俗学者)
宮本常一さんってどんな人?
昭和時代を代表する日本の民俗学者、社会教育家です。
私の説明
おはようございます。
2025年12月7日
私たちは「進歩」や「発展」という言葉が鳴り響く、喧騒の時代に生きています。新しい技術、新しい生活様式、より効率的な社会。古いものは捨て去られ、新しいものが常に善であるかのように、ひたすら前へと進むことが求められます。その絶え間ない足音の中で、私たちは一体どれだけのものを置き去りにしてきたのでしょうか。
しかし、時に過去の思想家が残した短い言葉が、こうした時代の潮流に鋭い楔を打ち込み、私たちの足を止めさせることがあります。この記事では、民俗学者・宮本常一が残した、わずか四行の深遠な問いを探求します。その言葉は、私たちが自明のものとしてきた「進歩」そのものを、静かに、しかし根底から揺さぶる力を持っています。
「進歩」と「発展」への問い
「いったい進歩とは、発展とは何だろうか?」
宮本氏の問いは、このあまりにも根源的な一文から始まります。「進歩」と「発展」。私たちはこれらの言葉を、より良い未来へ向かうポジティブな動きとして、疑うことなく受け入れています。しかし彼は、その定義そのものを、私たちに静かに問い返しているのです。
この問いは、自動的に前へ進もうとする私たちの思考に、一時停止を促します。日々聞こえてくる「進歩」という大きな声にかき消されがちな、小さなもの、古いもの、非効率なものへと目を向けさせます。私たちが「進歩」と呼んでいるものは、本当にすべての人にとっての進歩なのか。私たちが「発展」と信じているその先に、豊かな未来は約束されているのだろうか。この短いフレーズは、私たちが当たり前だと思っていた価値観の土台に、静かに疑問符を突き立てるのです。
失われたものの価値
失われたものは、本当に「無用」で「時代おくれ」だったのか?
彼の問いは、さらに核心へと迫ります。進歩の過程で切り捨てられ、忘れ去られていくものたちへと思考を巡らせるのです。効率や新しさという尺度のもとでは、「無用」で「時代おくれ」と判断されたものが数多くあります。しかし、それらは本当に価値のないものだったのでしょうか。
この問いは、物事の価値を測る尺度は一つではないという、本質的な視点を示唆しています。経済的な効率性や利便性だけでは測れない豊かさ、人間関係のあり方、自然との共存の知恵。例えば、手間はかかるが物を大切に修繕して使い続ける習慣や、非効率でも顔の見える関係から生まれる地域の信頼のようなものです。そうしたものが、「進歩」の名の下に失われてきたのではないか。ここで、彼の言葉の全文を見てみましょう。
いったい進歩というのは何であろうか。
発展というのは何であろうか。
失われるものがすべて無用であり、
時代おくれのものであったのだろうか。
— 宮本常一 (民俗学者)
この言葉が特別な重みを持つのは、彼が経済学者や政治家ではなく、民俗学者だったからです。彼の生涯の仕事は、日本中を歩き、数字で測られる「発展」ではなく、貸借対照表には載らない価値、すなわち土地の祭りや口承の物語、世代を超えて受け継がれる手仕事の技術といった、名もなき普通の人々の暮らしや知恵そのものを記録し続けることでした。経済の論理によって「時代おくれ」と断じられたものこそが、共同体の文化とアイデンティティを繋ぎとめる接着剤であることを、彼は誰よりも知っていたのです。
まとめ
宮本常一の言葉は、進歩そのものを否定するものではありません。むしろ、私たちが何を「価値あるもの」として選び取り、何を「不要なもの」として捨て去るのかについて、もっと思慮深くなるべきだという、立ち止まって考えることへの静かな誘い(いざない)なのです。それは、進む方向を盲目的に信じるのではなく、時折立ち止まり、足元を見つめ、失ったものの意味を考える姿勢を私たちに求めています。
私たちの足元で、今まさに消えようとしているものの中に、未来の私たちが喉から手が出るほど欲しがる「豊かさ」が隠されているのかもしれません。私たちは、それに気づくことができるでしょうか。