「山で小説を書こう」とした文豪が、結局「足元」しか見られなかった理由。

本日の名言

山へ行ったら、随分と考える時間があるから

小説の構想など山でまとめて来ようなどと思うのだが、

実際山へ入ると、

そんなことはいっさい考えようという気は起らず、

ただ、足下を見つめながら黙々と歩くのである。

発言者:新田次郎(小説家)

新田次郎さんってどんな人?

気象庁の技師として富士山頂へのレーダー設置などに尽力する傍ら、『孤高の人』『八甲田山死の彷徨』『聖職の碑』など、山岳小説の金字塔を次々と打ち立てた作家です。徹底した現場主義と緻密な取材に基づき、過酷な自然と対峙する人間の意志や美学を描き続けました。登山家としても知られ、彼が描く山の描写は、山に生きる者ならではのリアリティと深い慈しみに満ちています。

私の説明

「次の休みは山へ行って、静かな環境でじっくり今後のキャリアについて考えよう」 「溜まっているあの企画のアイデア、大自然の中なら浮かぶはず!」

そんなふうに意気込んでザックを背負い、山へ向かったことはありませんか? けれど、いざ登り始めると……どうでしょう。仕事の悩みどころか、晩ごはんの献立さえ忘れて、気づけば「ゼェゼェ」という自分の息遣いと、目の前の岩場のことだけで頭がいっぱいになっていた。

そんな経験、実は「山のプロ」であるあの文豪も同じだったようです。

巨匠・新田次郎も「お手上げ」だった?

『孤高の人』や『聖職の碑』など、数々の山岳小説を世に送り出した作家・新田次郎。彼はこんな言葉を残しています。

「山へ行ったら、随分と考える時間があるから小説の構想など山でまとめて来ようなどと思うのだが、実際山へ入ると、そんなことはいっさい考えようという気は起らず、ただ、足下を見つめながら黙々と歩くのである。」

あんなに重厚で緻密な物語を書くプロの作家ですら、「山の中で構想を練るなんて無理!」と言い切っているのです。なんだか、少しホッとしませんか?

なぜ、山では「無」になってしまうのか

これには理由があります。 都会での生活は、常に「過去の反省」や「未来の不安」など、頭の中がマルチタスクで動き続けています。

しかし、山は違います。

  • 「この岩、滑らないかな?」
  • 「次の段差、どこに足を置こう?」
  • 「息が上がってきたから、少しペースを落とそう」

山道は一歩一歩が真剣勝負。少しでも気を抜けば転倒してしまう環境では、人間の脳は自然と「今、この瞬間」に100%集中するように切り替わります。これは最近よく耳にする「マインドフルネス(瞑想)」と同じ状態です。

新田次郎が言った「ただ、足下を見つめて歩く」という行為は、実は脳にとって最高の休息だったのです。

「何も考えられなかった」は、登山の成功

もしあなたが下山したあと、「結局、何も良いアイデアが浮かばなかったな」とガッカリしているなら、それは大きな間違いです。

難しい構想や悩みが消えていたのは、あなたがそれだけ山に深く入り込み、心と体をリセットできた証拠。空っぽになった頭には、下山したあとの日常で、また新しいエネルギーが自然と流れ込んできます。

新田次郎のような偉大な作家でさえ、山ではただの「一人の歩く人」になりました。

おわりに:自分を空っぽにする贅沢を

もし次に山へ行く機会があれば、無理にノートを持っていったり、難しいテーマを抱えていったりするのはやめてみましょう。

重い荷物と一緒に「考え事」も登山口に置いて。 ただ、目の前の一歩を大切に、黙々と歩く。

その先に待っているのは、きっと都会の机の上では絶対に見つからない、真っさらで清々しい自分自身の心のはずですよ。

新田次郎さんをもっと学びたい人はこの本がおすすめです!

新田次郎の名言、, ‘小説家山へ行ったら、随分と考える時間があるから小説の構想など山でまとめて来ようなどと思うのだが、実際山へ入ると、そんなことはいっさい考えようという気は起らず、ただ、足下を見つめながら黙々と歩くのである。’